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朗詠二の句について

 投稿者:藤脇 亮メール  投稿日:2005年 4月14日(木)00時55分42秒
  その昔、朗詠の春過ぎなどの、二の句は女性が詠っていたって本当でしょうか。もし本当ならその根拠になる資料は、どれを探すべきでしょうか。  
 

リンクを張らせていただきました。

 投稿者:織田百合子メール  投稿日:2003年10月14日(火)11時01分20秒
  以前から何度か拝見させていただいておりました。「白拍子の風」という、白拍子が主人公の小説を書いたときに朗詠の知識が必要となり、CDを購入して聴いていました。こちらのホームページを知ったのはその後ですが、リンクフリーとあるのを拝見して、私のところへ訪ねて下さる方にも是非この世界をご紹介させていただきたいと思い、張らせていただきました。一層のご活躍をお祈り申しあげますとともに、これからも深く学ばせていただきます。

http://homepage3.nifty.com/shirabyoushinokaze/

 

朗詠研究日録 8

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2003年 1月 7日(火)22時56分18秒
  「朗詠」の付物(伴奏楽器)は、現在では龍笛・篳篥・笙の三管です。『楽家録』には「古用琵琶、近代不用之。和琴未考旧例」とありますが、実際「箏」「琵琶」「琴」などの伴奏例が確認されます。しかし、平安期以降の朗詠記録(特に宴席の場合)には伴奏楽器の記述がほとんど見られません。このために、これらの朗詠曲にひとしなみに伴奏がついているのか、もしくは朗詠者によって素で謡われるのかは判断に迷うところです。
 しかるに『看聞日記』中には、160例余の朗詠例のうち、以下の各例において、「有付物」という注記が付されています。
応永24年(1417)4月2日(笙付之)・5月2日(付笙)
応永25年(1418)1月18日(有付物)・7月1日(有付物)・7月2日(有付物)
応永26年(1419)1月28日(有付物)
応永27年(1420)7月4日(有付物笛相公、笙三位)・7月19日(第二反之時宰相笛付之)
永享5年(1429)9月2日(調子サカル、笙不付得)
永享6年(1430)10月24日(有付物)
永享13年(1437)1月8日(箏付)
 『看聞日記』中の朗詠例の多くは、伏見宮家における修練のための楽会でのもので、公けざまの例は僅かですが、少なくともこの時期における「郢曲付物」は、恒常的なものであったわけではなかったことが伺われます。
 

朗詠研究日録 7

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2003年 1月 4日(土)00時31分26秒
   『和歌文学研究』第八十五号(平成14年12月10日)所載の拙稿「明治初年の歌会始ー和歌御会始から近代御会始への推移ー」において指摘しましたように、明治9年から11年にかけて、一時的に歌会始の講頌役として宮内庁式部寮雅楽課所属の伶人林広守(1831~1896)及び芝葛鎮(1849~1918)が参加したことがありました。これは明治12年に廃せられましたが、這間の事情について、永らく披講所役の指導に当たった大原重明氏(1883~1961)は、所役を励まして次のように述べたと言います。
「もう少しお稽古を遊ばさなければいけません。こんなことでは披講は楽部にとられてしまひますよ。明治のころもさふいふことがありました。でもその時は明治さまが、公家の声がききたい、と仰せられましたので、また公家の手にもどりましたが」  (坊城俊民氏『歌会始』)
 この逸話は現在でも披講会に伝えられるところと聞いております。すなわち、音楽の専門家と和歌の専門家の相剋という問題は、何も鎌倉時代に限ったことではなく、ずっと今日まで続いているというわけです。今日、楽師の方々による「歌披講」の音源がいくつかあり、披講会のそれとは大きく異なっていることが知られます。その是非は措くとして、そこにこのような歴史的な背景のあることは認識しておく必要があると思います。

(和歌文学会)

http://wwwsoc.nii.ac.jp/waka/

 

朗詠研究日録 6

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2003年 1月 3日(金)23時46分49秒
   天禄3年(972)4月3日、天台座主良源(61歳)は、天禄元年に焼亡した延暦寺講堂等五堂の落慶供養を催します。この大法会には、菩薩・鳥舞(迦陵頻)・胡蝶の舞楽のほか、新作の童舞舞楽「天人階仙楽」(唐楽)「仙童供花楽」(高麗楽)が上演されました。この舞楽は、当時50歳の源博雅に笛の作曲が依頼され、また、文章博士菅原文時(74歳)が、「朗詠を作った」とされます。
「次供花。菩薩八人、鳥舞童六人、胡蝶童八人、新作舞童十六人(唐、名『天人階仙楽』・高麗、名『仙童供花楽』)。但件二舞為楽頭。作笛請(譜)者中宮権大夫従四位上源朝臣博雅、作朗詠者従四位上行式部権大夫文章博士菅原朝臣文時、唐舞者右衛門少尉秦良助作、高麗舞者師多好成。方今伝聞南北之歌唄、訪伶人於雅楽、製新古之妙、課以童於良家、通出而舞、同音各詠」          (『慈恵大僧正拾遺伝』)  
 ここにいう「朗詠」とはいわゆる「舞楽詠」と考えられます。同時に上演された舞楽「菩薩」「鳥舞(迦陵頻)」はいずれも「詠」を伴う(但し鳥舞の詠は廃絶)ため、これに対応すべく、新作の「詠」を、菅原文時に依頼して新たに製したものと見られますが、現在すべて廃絶している「詠」が、新規に作られることがあったことを示す、まことに貴重な例で、小野篁作といわれる「輪台」「青海波」の詠と同様、名のある詩人による詩句が用いられ、かつまたそれが「朗詠」と呼ばれていることは、「詠」と「朗詠」との関係を考える上で重要でありましょう。『慈恵大僧正拾遺伝』は長元5年(1032)、良源の高弟たる梵照の撰にかかることが知られますが、『和漢朗詠集』の成立(1012年頃)からいくばくもない時点において、「朗詠」の語がこのような形で応用されていることには、その一般的な定着のありようをもまた、示唆していると言うことができます。
 

朗詠研究日録 5

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2002年12月15日(日)20時48分32秒
  建保6年(1218)9月13日の順徳天皇内裏歌会には、藤原定家(57歳)が御製講師をつとめましたが、その際、講頌を務めた藤原家隆(61歳)の声が「細声」であったために、郢曲の家の藤原経通(41歳)が吹き出して笑ってしまい、天皇がこれを咎めたという逸話が『順徳院御記』に見えます。
 披講之時、経通ハ依音曲、近ク参テ詠、家隆ハ依為歌仙、又近進。双袖テ詠ニ、家隆出細声、
 経通吹出テ笑。尤無骨、家隆有腹立之気、経通尤無由事歟。
 この記事から受ける印象は、生意気な若輩である経通が、歌壇の大御所の家隆卿に対して軽忽の振舞をした、という感じなのですが、たまたま、このちょうど一ケ月前の8月13日に、天皇主催の中殿和歌御会があり、その時の絵図(藤原信実が描いたと考えられる)が『中殿御会図』(重要文化財)として伝わっており、経通や家隆の容貌が「似せ絵」の手法で記録されているのです。
 ここに見る藤原経通は、実に恰幅のよい、堂々たる体躯の持ち主で(隣の衣笠家良と比べるとよくわかります)、さぞや声も大きく、豪快で自信に満ちていたのであろうと推測されます。だからこそ、家隆が弱々しい声で吟詠するのを、笑止とばかり嗤い飛ばしたのでしょう。文献からだけではなかなかわからない事柄ですね。
(ご参考までに↓)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~BDN/keitsu.jpg

 

朗詠研究日録 4

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2002年12月11日(水)21時55分14秒
  現存唯一の詩披講譜、『為学卿記』明応4年(=1495年)所載譜について、霊元院
(1654~1732)より、楽の家である綾小路家にご下問がありました。このとき
の当主は綾小路有胤と推定されますが、院のご下問に対し、次のように答えたといいます。
「霊元院仰ニ而内々御尋、此分ニ而ハ難相調旨言上」(『詩披講・歌披講』)
「此分ニ」は『日葡辞書』に「Cono Bunni=このように」とある語で、「此分ニ而ハ」は、
「このままでは」という感じでしょうか。つまり、この譜のままでは「相調ひ難き」、再
現することが難しいですよと、楽の家である綾小路家が、いわば匙を投げた格好なのです。
この譜は、純然たる雅楽譜ではなく、どちらかといえば、平曲や声明、あるいは謡本の節
付などに似ているため、さすがの綾小路家としてもお手上げだったのだろうと思われます
が、してみると、この譜を現代に蘇らせようとする試みにもまた、同じような苦労がつき
まとうということになるわけですね
 

朗詠研究日録 3

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2002年12月 7日(土)00時29分41秒
  「隆周」は、平安朝の朗詠常用曲五曲のうちに数えられ、おもに皇子・皇女出産時の産養にお
いて用いられました。もと藤原伊周が敦成親王の百日祝に際して書いた和歌序の一部で、歌詞
もまた大変ユニークなものでありました。
「隆周之昭王穆王暦数永 吾君又暦数永 本朝之延暦延喜胤子多 吾君又胤子多」
                       (『新撰朗詠集』帝王 六一六 藤原伊周)
しかし、この曲は鎌倉期に入ってあまり用いられなくなり、応長元年(1311)2月25日
の後伏見上皇皇女の三夜産養を最後に実演例が途絶えます。産養そのものが衰微し、かつそこ
朗詠を行うという習慣も忘れられたものと見られます。応永30年(1423)4月3日、
『看聞日記』において、久々に「周照王穆王」の記述が見えますが、貞成王は「朗詠習之」
と記しており、日記中の他の多くの稀曲同様、「隆周」は既に珍しい曲として扱われていた
ことが知られます。かつての常用曲のなかで現在曲節が伝わらない唯一の曲なので、もし、
朗詠の「復曲」という企画があるならば、最初に候補として挙げたく思っています。
 

朗詠研究日録 2

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2002年12月 4日(水)10時28分56秒
  応永28年(1421)2月3日、綾小路信俊の養子となっていた綾小路資興が亡くなります。
三種の神器が南朝より戻った際の内侍所御神楽(明徳3年=1392年)に奉仕した信俊も
既に67歳、長子侍従信定を早世させ、さらに自身も前年の春に中気(脳卒中)で倒れ、「窮
屈之間、楽数多吹事難治」(『看聞日記』応永27年7月3日条)という状態であっただけに、
一層こたえたと思われます。この悲劇について、信俊の音楽の弟子であった伏見宮貞成王は次
のような感懐を述べています。
「抑綾小路少将資興(源宰相子息、但養子也)今日逝去云々。此十余年令病気、其躰惘然狂気也。仍不出頭一向蟄居了、遂以遠行不便無極。源宰相家業無相続人躰、相公已及六十余之間、
縦猶子雖出来、音曲相続不定事也。郢曲可断絶歟。為朝家、為家、驚歎無極。但道神有加護者
不可断絶歟」
実際には「道の神の加護」があったものか、山科行有の子有俊(当時はまだ3歳)を後継に
迎えるという形で、綾小路家は引き継がれて行きますが、同じ頃に廃絶した藤家郢曲中御門
家と同じような運命を辿る可能性が、綾小路家にも充分あったということになります。
 

朗詠研究日録 1

 投稿者:青柳隆志メール  投稿日:2002年12月 1日(日)23時58分14秒
  青柳でございます。
現在、中世の朗詠・詩歌披講に関する研究を進めております。
詩会の披講につき「詩披講考」(明応4年=1495年の『為学卿記』に載る詩披講譜の考察)
「頌声考」(詩会における御製や貴顕の詩に対する、詩会講師の特異な褒め声に関する考察)
が校正中となっております。また、伏見宮貞成王の『看聞日記』に見える朗詠記録を整理中です。本日録では、そうした考証の過程で気づいた事柄の余滴を、折に触れて書き残しておきた
いと思います。
 

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